岸田秀の唯幻論

私は、この場を使って、独断と偏見に基づいて、唯幻論辞典のようなものを書いていきたいと思う。

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フロイトは、人の行動原理を2つに分けた。

「現実原則」と「快感原則」(快不快原則)である。

快感原則は、欲望の原則である。腹が減れば、どこかの食堂にでも行って食事をする。
何を食べるかは、欲望が決定する。

しかし、何を食べるかの選択にあたって、欲望だけが決定要因ではない。メニューには、価格が明記されているだろう。あまり高価なメニューを選ぶことはできない。財布と相談しなければならない。この財布との相談というのが現実原則である。

ここで、人は悩む。快感原則に従って、高価ではあるが自分の好きなものを選ぶか、現実原則に従ってそれを断念し、安価なものを選ぶか。

現実原則と快感原則が対立した時、この対立を「葛藤」と呼ぶ。

心の悩み苦しみは、心的な葛藤状態として記述される。つまり、2つまたは3つの心的な要素の対立として描かれる。

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フロイトは、心的な要素を「エス」「自我」「超自我」の3つに分けた。

「エス」とは、欲望渦巻く心的要素。
「自我」とは、現実対応の機能を持った心的要素
「超自我」とは、社会的宗教的規範に従う心的な要素

この三者の対立を心的な葛藤として描いた。


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フロイトは、自分の知らない自分があり、それを無意識と呼んだ。神経症の症状を無意識と意識の葛藤として描いた。

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岸田秀は、フロイトの理論を修正し、心的要素を「自我」と「非自我」に二大分類した。

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いずれにせよ、心の悩みは心的な要素の対立=葛藤状態である。

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たとえば、イスラム教の熱心な信者を想像してみよう。彼の行動原理はイスラム教の原理に基づいている。
ラマダンになれば、断食をする。腹が減っても我慢である。日が沈めば、たっぷりご馳走が待っている。
欲望に負けて、ラマダン中に何かを食べてしまったら、罪の意識を持ちそれで自分を責めるであろう。

彼の行動原理は、彼にとって明確である。こういう場合、彼は悩みを持つかもしれないが、病的にはならないであろう。深刻な悩みを抱えないだろう。全てが意識され、明確であれば病的にはならない。

もしも、彼のイスラムの信仰を周りの人が全く知らなければ、彼はキチガイに見えるであろう。
こんなことはありえないが、もしも、彼自身さえイスラムの信仰を抑圧し、無意識に追いやってしまったら、彼は、無意識に追いやられたイスラムの信仰心によって、イスラムの教義に反する行動をしたときに、正体不明の罪の意識に苦しむだろう。

病的な心の葛藤や悩みを抱えた場合、その心的な葛藤対立は、明確ではない。意識されている対立は偽物である。
葛藤は、「意識」と「無意識」の対立なのだ。自分だけでは解決できない。なぜなら、見えない敵との戦いだからである。

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岸田秀は、心の悩みや病的な心的葛藤を「意識」と「無意識」、「現実我」と「幻想我」、「内的自己」と「外的自己」などの対立葛藤として描いている。

人の心の要素を機能的に分類すれば、「現実我」と「幻想我」と分類できる。
「現実我」は、現実対応するための自我である。
「幻想我」とは、現実に則さない誇大妄想的な自我である。

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岸田秀は、人間の行動原理とは何かとは、問いかけていないようである。
その代わりに、人間の行動はいかにして混乱するのかという問を立てている。
この2つの問は、似ているがだいぶ違う。

人間の行動原理は、それが明確に意識されていれば、何ら問いかける必要も、問題にする必要もない。意識されていれば、了解可能であり、問題はない。問いかけるに足りない。問題にして問いかけているのは、行動原理ではなく、行動原理の混乱である。

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人の行動原理の混乱は、客観的な記述を拒否する。物語として描かれる。


未完
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posted at 08:49 | 雑記 | TB(0) | CM(1)

leaf 唯幻論

09.30.2011

岸田 人間は本能が壊れた動物であり、現実に適合するために本能の代わりとして幻想を必要とします。人間とは、幻想する動物であるという考え方で、唯物論をもじって唯幻論と名づけました。
(新世紀への提言より)http://www.nagano-cci.or.jp/tayori/692/ts_692.html



 わたしは史的唯幻論という説を唱えている。ソ連の崩壊などで今や放棄されたかに見える史的唯物論がまだ多くの人たちに普遍的真理であるかのように信じられていた頃、物質的経済的条件で歴史を説明していたこの理論に対抗して、歴史を動かす最大の要因は幻想であるというわたしの考えをいくらかふざけて、そして実は大まじめにそのように命名したのである。(二十世紀を精神分析する)




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posted at 20:37 | 唯幻論 | TB(0) | CM(0)

二十世紀を精神分析する

  一、史的唯幻論

 わたしは史的唯幻論という説を唱えている。ソ連の崩壊などで今や放棄されたかに見える史的唯物論がまだ多くの人たちに普遍的真理であるかのように信じられていた頃、物質的経済的条件で歴史を説明していたこの理論に対抗して、歴史を動かす最大の要因は幻想であるというわたしの考えをいくらかふざけて、そして実は大まじめにそのように命名したのである。




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posted at 22:23 | 史的唯幻論 | TB(0) | CM(0)

公的には、和光大学名誉教授。

社会学者(構成主義社会学の先駆け)、心理学者(フロイト研究者)、歴史学者、哲学者かもしれないが、本人は、(文明)評論家を自称しているようである。



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posted at 00:27 | 雑記 | TB(0) | CM(0)

http://www.nagano-cci.or.jp/tayori/692/ts_692.html

― 『ものぐさ精神分析』をはじめ、先生の著書を拝見すると、目から鱗が落ちるような知的刺激を感じます。インタビューのはじめに、先生が唱えられる唯幻論について、簡単にご説明をいただけますか。

岸田 人間は本能が壊れた動物であり、現実に適合するために本能の代わりとして幻想を必要とします。人間とは、幻想する動物であるという考え方で、唯物論をもじって唯幻論と名づけました。論として活字にするずいぶん以前から、私の中に「世間のことはすべて幻だ」という漠然とした感覚がありました。とりたてて新味のないありふれた考え方だろうと訝っていたので、編集者が興味を示したときには、こちらが驚きました。

― 先生は、人間を自らつくった物語の中だけでしか生きられない動物だと分析され、その論を人間の集団である国家や、その歴史にも展開されていますね。

岸田 私は、これまで精神分析や精神病理学理論を勉強してきました。たとえば精神分裂病の患者について、どんな原因で患ったのか、あるいは、病の過程でどんな心の変化をみせるかについて、さまざまな臨床例を学びました。一般に精神分裂病は、初期段階に被害妄想がみられます。周囲の人間が、自分を憎んでいるのではないか、疎外しているのではないかという感覚です。次の段階では、周囲の攻撃から自分を守るために、自分は強くて偉くて価値ある存在であると周囲に示そうとします。つまり誇大妄想が生じるのです。
 被害妄想から誇大妄想に至るこの過程は、何かに似ていないか。たとえば日本の近代史がよい例です。ペリーらの圧力で開国した日本は、明治維新を経て、世界史に例のないスピードで列強に伍し、日清日露の二つの戦争で勝利しました。しかし、その後の日本は列強の中で被害妄想を強くし、果ては誇大妄想をもって真珠湾を攻撃し、太平洋戦争に突入します。当時の日本の集団心理は精神分裂病患者の心理によく似ています。敗戦色が強くなったときの、あまりに非現実的非合理的な作戦行動なども、精神分裂病患者の心理そのものです。



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posted at 00:21 | ネット上の資料 | TB(0) | CM(0)

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